耐えた後は


勝利したプロシャは、フランスからアルザスとロレーヌ地方を分捕っただけでなく、
50万フランという多額の賠償金を得て、ドイツの経済的な発展がうながされた。

19世紀前半から始められた鉄道の施設などによる輸送力の増強、
ルール地方の石炭の増産によるエネルギー源の確保など、
ドイツが経済的に成長する基盤がととのってきていた。

いっぽう、1870年の普仏戦争の敗北でナポレオン三世が退位、
共和制が敷かれたフランスは、
ドイツに多額の賠償を支払うなどの苦しさに耐えた後は経済的に発展する。

プロシャを中心


鉄道ではリードしたイギリスは、
自動車や飛行機になると逆にドイツやフランスから技術的に
学ばなくてはならない状況になっている。

イギリスやフランスに比較すると、ドイツは国家が統一されておらずに
小国の乱立でまとまりに欠けていたせいもあって、19世紀前半までは
後進地域と見られていたが、その中の強国プロシャが、
1870年にフランスとの普仁戦争に勝ち、
プロシャを中心にしてドイツ国家が誕生した。

進歩が停滞


具体的な例としては、自動車関係で有名な「赤旗条例」がある。
1855年に施行された法律で、蒸気機関を積んだ自動車が道路を走るようになると、
歩行者の安全を優先して、自動車はスピード制限され、
赤旗を持った人がクルマがくることを告知するために
クルマの前を進むことを義務づけるものだった。

クルマを走らせる意味はなくなり、自動車の進歩が停滞した。
悪評の高かった「赤旗条例」が廃止されたのは1896年、
ダイムラーとベンツがガソリンエンジンの自動車をつくった10年後のことである。

気性が失われた


産業革命を起こしたイギリスは、19世紀の前半には繊維業だけでなく、
鉄鋼や鉄道などの重工業部門でも先駆的な役割を果たし、
ヨーロッパの他の国々を圧倒していた。

しかし、19世紀の後半になると、その勢いが鈍ってきた。
遅れを取り戻そうとするフランスやドイツの工業の発展に圧されて、
イギリスは成長の度合いが低くなった。
経済発展のなかで、社会的に保守思想がいきわたり、
進取の気性が失われたからであろう。

19世紀後半のヨーロッパの状況


中古リースは環境にやさしい。
中古と言っても車を3年で乗り換えることも出来るので、
実質新車のような気持ちで乗れる。

自動車が生まれた背景をみていく。
ドイツ人にとっては、
確実にしっかりと性能を発揮させることが自動車づくりの基本であり、
フランス人にとっては、乗る人が映適であることが第一であるという発想、
の違いが顕著に現れていた。

ところが、蒸気機関で、
あれだけヨーロッパ大陸の国々をリードしたイギリスが、
自動車の誕生にほとんど関わっていない。